地価の上昇にはじき出された人たちが、相対的に地価の安い地域に転入し、今度はそこの地域の値段が上がり、資本が流入して、もともと住んでいたコミュニティが追い出されるーー90年代から都市部の治安が向上するのとともに、ジェントリフィケーション(高級化)という現象がアメリカの都市部の現実になった。中でもテック業界、スタートアップ業界によるバブルが起きたサンフランシスコは、貧富の差が拡大し、もともと住んでいたコミュニティや中産階級がもはや住むことのできない高級化の一例として語られる。資本主義の避けられない帰結といえばそれまでなのだが、長年、そこに暮らしてきたコミュニティにとってはたまったものではない。
2013年から少しずつ一進一退を繰り返しながら大きくなってきた、黒人に対する警察の暴力に抗議するムーブメント、Black Lives Matterが、ミネアポリスで起きたジョージ・フロイドさんの警察による殺害をきっかけに爆発的に再燃してから、社会構造と制度的レイシズムへの理解が進み、ジェントリフィケーションの問題も、これまで見過ごされてきた角度から再検討されることになった。かつては労働者層が暮らしていたが、今は、リッチな富裕層が暮らす高級地域を、プロテスターたちが「Fire, fire, gentrifier, Black people used to live here」と声をあげながら練り歩く。これまで、ジェントリフィケーションによって押し出される人々がいる、ということは、理解されてきたはずが、それが主にブラックやヒスパニックの人口だということは、積極的には語られてこなかった。肌の色に関わらず、一生懸命働けば成功することができる、というアメリカン・ドリームの建前にとっては、心地の悪い現実だったのだろう。
私が初めて足を踏み入れたアメリカ大陸の都市は、サンフランシスコだった。1993年のことだ。もちろん人種差別というものはあったのだろうけれど、人種の坩堝アメリカに憧れて日本からやってきたばかりの若く青臭かった自分には、サンフランシスコは、様々な人種がひしめき合って暮らす、多様な社会に見えた。今、サンフランシスコの中心街の様相はまったく違う。街を歩いて目につくのは、アウトドアブランドのフリースを着たスタートアップの労働者らしき人々か、観光客か、はたまたホームレスだ。その他の人たちは一体どこに行ってしまったのだろう? 昨年末、最後に仕事でサンフランシスコを訪れたとき、乗せてくれたウーバーのドライバーは、近郊に自分が払える家賃の場所がないから、片道2時間の距離を通勤しているのだと教えてくれた。
高級化が深刻な社会問題であること、ただただ家賃が上がり続ける事態が長期的にサステナブルでないことは、コミュニティのリーダーたちによってたびたび指摘されてきたが、その過程で、おそらく星の数ほど起きたはずのハートブレイクは、あまり語られてこなかった。かつて自分の家族が暮らしながら手が届かなくなった家に、なんとかして暮らそうとする若い黒人の主人公を中心に展開する「ラストブラックマン・イン・サンフランシスコ」は、そんなハートブレイクのひとつに焦点を当てようとする映画である。脚本は、主演のジミー・フェイルズの人生をもとに、フェイルズの親友で、やはりサンフランシスコ出身のジョー・タルボットとともに書いたという。バラバラになってしまった家族の良き時代の思い出を象徴しながら、今では人手に渡ってしまった家に、あの手この手を使ってしがみつこうとするジミーの姿は切なくもあるけれど、文明の進化資本主義の裏で犠牲になる目に見えない価値観の存在に気づかせてくれる。
私自身も高級化の波にコミュニティが押し流されるブルックリンに長らく住んでいる。特に近年は、住民たちがどれだけ戦っても大資本に勝てるわけもなく、何事にも終わりが来るのだ、と、諦め受け入れる気持ちのほうが強くなっていたが、今、コロナウィルスとBLMの時代にこの映画に出会ったことが、時勢に流されるだけではなく、負けるとわかっていても闘わなければいけないときがあるのだということを思い出させてくれた。