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映画『メイ・ディセンバー ゆれる真実』をもう一度観たくなる5つのポイント

信用できない主人公

本作はかつて世間を騒がせた女性グレイシーと、その女性を演じることになった女優エリザベスの物語。グレイシーは愛する夫と子供たちに囲まれ、幸福に暮らしているように見えますが、冷静に見ると私生活は謎だらけ。当時、彼女はあれだけバッシングされたのに、彼女の周囲は穏やかな人しかない。物語が進むにつれ、グレイシーは“自分の見たいもの”だけ見て、自分の都合の悪いことはすべてスルーするか、なかったことにしているのがわかってくる。

一方の女優エリザベスは、演じるための“取材”と称してグレイシーに近づくが、そもそも彼女の女優としてのキャリアや演技の実力はかなり怪しいものです。人あたりよくグレイシーの一家に近づくものの、思い込みに近い憶測や考察を“エビデンスのある情報”だと思い込んでいるし、事件の起こった現場に足を運んでも観察や調査するどころか、役になりきって満足して帰るだけ。

どちらの主人公も観客にとって信用できない人物で、それぞれが“思い込み”の世界を生きている。映画の結末を知って改めて冒頭から観れば、ふたりの思い込みや勘違い、現実を見ないようにしている態度や行動に気づくはず。

エリザベスの“服装”に注目

自分の殻に閉じこもり、愛する夫、理解のある人々に囲まれて、島で幸福に暮らしていると“思い込んでいる”グレイシーは、まるでファンタジーのお姫様のよう。“そしていつまでも幸せに暮らしましたとさ”を体現するべく、グレイシーの衣装はカラフルで、フェミニン。彼女を演じたジュリアン・ムーアは声のトーンを工夫して“子どもっぽさ”を表現したという。

対称的にエリザベスはシックな服装でスクリーンに現れる。スタッフの立てたエリザベスの衣装のコンセプトは“ハリウッド王室”。彼女はハリウッド女優ではなく、TVやインディーズ映画に出ている女優であることを考えると、この服装も興味深い。

しかし、映画が進むにつれて、エリザベスの服装に変化が生じていく。最初は濃い赤紫色(バーガンディ)の服を着ていた彼女がいつしか、グレー、ラベンダー、ピンクと“グレイシー色”の服装に変化していることに気づいただろうか?

鏡を見つめるふたり

エリザベスはグレイシーに近づき、やがて想像もしなかったほどに影響を受けていく。距離を縮めたふたりが最も接近する瞬間、それがふたりが鏡の前に立つシーンだ。ふたりは鏡を見ながらメイクをして、やがて両者は近づいていく。ふたりはお互いを理解し、両者の間に信頼関係が芽生える。

しかし、本当にそうだろうか? ふたりが見ているのはお互いではなく“鏡に写る自分と相手”だ。いうまでもなく鏡に写る像は“そのままの自分”ではない。それは鏡を通して自分が生み出したイメージであり、カメラは“鏡を覗き込むふたり”はとらえているが、彼女たちが鏡の中にどのような“自分と相手”を見ているのかは描かれない。

このシーンは本作のハイライトシーンであり、同時に最大の罠が仕掛けられた場面でもあるのだ。

あの音楽は何だったのか?

劇中に突然、流れる妙にドラマティックな音楽が気になった人も多かったはずだ。不穏で妙に劇的なこの音楽はフランスの名作曲家ミシェル・ルグランがジョセフ・ロージー監督の映画『恋』のために書いた楽曲を編曲したもの。この楽曲は制作の準備段階から現場に流れていたそうで、撮影時や編集作業中の部屋にもこの曲が流れていたという。

ポイントはこの劇的な楽曲が、ドラマを盛り上げるためには使用されていないこと。何げない日常の場面にも急に流れ出し、そのあまりの唐突さは不思議を通り越して笑えてくる(特に「ホットドッグが足りない」のシーンは、アメリカでの公開時には笑いが起こることも多かったそうだ)。

この音楽は“何げない日常の裏側には、劇的で不穏なドラマや感情が渦巻いている”ことを示しているとも言えるし、考察したり、シリアスな展開になると予想している観客に冷や水をかける行為のようにも見える。何にせよ、トッド・ヘインズはシーンの“説明”になるような音楽は一切、使わない監督だ。

改めて観る際にはあのメロディがどのシーンの、どんな状況で鳴り響いているのか注目すると、あの楽曲が急に流れだす異様さ、面白さをより深く感じられる。

騒然、唖然! ラストの解釈

そして誰もが気になるのは、あのラストシーン。取材を重ね、グレイシーの心の中を覗き、掴んだ、彼女を理解したと思っているエリザベスがついに見せる演技に唖然とした人も多かっただろう。驚くほどチープで、雑然とした撮影現場、集中していないのかテイクを重ねるエリザベス。そして違和感しかない蛇の存在。

このラストに何か重大な意味があるのか? 意地悪さ全開のラストなのか? タチの悪いジョークなのか? 観る人によって解釈の分かれるところだろう。ちなみにトッド・ヘインズ監督はあのラストについて「完全に笑わせるつもりはないけど、ギリギリの線は狙っている」とコメント。思わず笑ってしまった人、安心してください。

一方でヘインズ監督は、こうも語っている。「エリザベスが何度も繰り返しテイクを重ねていって、観客に疑問を投げかけて映画は終わります。果たして人生や真実は、どう描けば正しいのか?」

仮にエリザベスがNGもなく、我々から観て“真に迫った演技”をしたとして、それは彼女がグレイシーを完全に理解したことになるのか? あの笑ってしまうしかない結末にも本作が仕掛けた罠と意地悪さが潜んでいるのだ。