映画は強制収容所内部の虐殺ではなく、その隣のホームドラマを映す。観客はその生活感あふれるホームドラマにこそ恐怖するだろう。そこにいるのは虐殺者であり、略奪者であり、しかし、紛れもなく自分たちと同じ人間だ。
逢坂冬馬(小説家)
アウシュヴィッツは言葉にできない。映像にできない。多くの哲学者がそう論じてきた。その困難をこれほど見事に逆手に取り、警鐘に変えた映画をほかに知らない。語られて目に入らなければ、ひとはどんなことでも忘れることができるのだ。
東浩紀(批評家)
生活の合間に漏れ聞こえる不穏な音の数々は、やがて私たちの耳を支配し、その平和の歪さを突きつける。楽園に漂う腐臭から目を背け淡々と暮らす家族に、今の自分たちを重ね、上映後なかなか立ち上がれなかった。
宇垣美里(フリーアナウンサー・俳優)
壁の向こうの声が聞こえるか。
そのグロテスクさに目を向けられるか。
暗闇の先にある歴史と現代を同時に映す怪作。
荻上チキ(評論家・ラジオパーソナリティ)
高くて長い塀に沿って建つ住宅
陽当たりも良く 庭も手入れが行き届いている
妻も美しく 子供は可愛くて元気だ
耳を澄ますと 微かな重低音が聞こえるような気がする
細い煙が立ち上るのが見えたりする
家族は そのような事を気にする素振りもない
ほとんどのドイツ国民は皆こうであったのだ
塀の向こうで起きていた事は何も知らなかった
高くて長い塀 今でもあちこちにあるのだ
久米宏(フリーアナウンサー)
怖い
収容所の中が映されないことも
ただただ、家族の平穏な暮らしが描かれていることも
整備された庭も
赤く染まる夜空も
ただ、ひたすらに怖い
ふいに差し込まれる
ブラックアウトの画面
音だけの闇の中に忌まわしい出来事を想像してしまう
なんという体験だろう
まるで、僕らの関心領域を測られているかのようだ
思考停止で盲目になっている人間を逃さない
恐ろしい映画だ
こがけん(芸人)
ジョナサン・グレイザーはまたトンデモない映画を時代に放った。映画とは“何かを知るキッカケ”になるものだ。ところが、本作はその真逆をいく。日常の壁の向こうに隠蔽された“ジェノサイド”には一切近づかない。しかし、あの“民族浄化”に関心がある観客には、向こう側の“地獄絵”が鮮明にフラッシュバックする。壁越しに訴えてかけてくる音響と、敢えてなにも見せないという拷問で、観客の脳内からイメージを引き出す。あなたの“関心領域”を試し、逆説的に“ホロコースト”の風化をいまに問う。なんという映画だ。
小島秀夫(ゲームクリエイター)
人という動物を体感する映画。目で美しさを感じ、背中で悍ましさを観る。 幾何学的で人の気配を感じないアングルの美しさとそこで繰り広げられる生きる活動。 不協和音と映像のハーモニー。そしてどこまでも続いていくような漆黒。 大きな物体となった見えない恐怖が、私の心の中に植え付けられたような気がします。
林響太朗(映像監督、写真家)
ジェノサイドは現在も行われています。地理的に離れたところでも、その情報が瞬時に届くこの時代には皆の関心事なので、何らかの行動を起こさなければ我々もヘス家の人たちを非難する立場ではありません。
ピーター・バラカン(ブロードキャスター)
楽しい家庭生活を送る強制収容所所長の家の向こう側で行われているホロコースト、その残虐行為の写真も映像も映画では使われていない。それが却って前代未聞の人道への罪を浮き立たせる。
舛添要一(国際政治学者)
本作で徹底的に描かれるのは「正常化バイアスの恐ろしさ・醜さ」であり、それは過去のどのナチ映画よりも精神的に地続きなものとして、観客に迫る。人はどれほど見て見ぬふりをできるのか。どこかで行われている非人間的搾取を前提にしながら日々の生活を営む我々と「彼ら」を分かつ絶対的ポイントは存在するのか。これぞ本当に現代が求めるホロコースト作品といえる。必見。
マライ・メントライン
(ドイツ公共放送プロデューサー)
(ドイツ公共放送プロデューサー)
かつてのルドルフ・ヘスの家はない。今は敷地だけだ。妻と子供たちをドイツから呼び寄せたヘスは、ここで仲睦まじく暮らしていた。振り返って衝撃を受けた。すぐ傍には高い塀と焼却炉の煙突。煙はここまで漂ってきたはずだ。
その衝撃が映画になった。しかも時空を超えた。すごい映画だ。それしか言葉がない。
森達也(映画監督・作家)
主人公の家族の目には映らないもの、耳で聞こえているはずなのに素通りするもの。
描かれていないものに観客が想像力の触手を伸ばそうとするとき、
感傷も冷笑もしりぞけた先にある人間性が見えてくる。 残酷さが人に与えるダメージも見えてくる。
山崎まどか(コラムニスト)
ドイツでも話題になった本作、アウシュヴィッツを題材とした映画としては珍しく加害者やその家族の日常視点で描かれており、歴史やあらゆる暴力と向き合う新しい形がまたひとつ生まれたように思いました。暴力的な描写はなく、無音ならば、郊外にある庭付きの広いお屋敷で暮らす家族の日常を描いた物語にも見えます。しかし、その牧歌的な映像には似つかわしくない、塀の向こう側から聞こえてくる誰かの叫び声や怒号、銃声が風景に溶け込み、観ている人はそれでも平然と暮らす家族に嫌悪感を抱きます。何気ない会話や行動に狂気すら感じます。それこそが「凡庸な悪」の姿であり、奪われる心配のない者が持つ残酷さなのです。また、アウシュヴィッツの中で起こっていることを見せずに透明化し、音で存在を印象付けることに成功した、耳で観る映画だと思います。
綿谷エリナ(ラジオDJ/マルチリンガルタレント)
※敬称略/順不同