1978年。わずか1年の間に、その後のロック・シーンに大きな影響を与えた若者たちのムーヴメントがあった。
スマートフォンもSNSも存在しない時代、自分たちの音楽を、自分たちの手で届けようと、楽曲も録音スタジオもレコードもすべて自分たちで創り、新しい道を切り開いていく【D.I.Y.】のスピリットで音楽業界に風穴を開ける。メジャーしかなかった世界にインディーズというスタイルを生み出し、自主レーベルを立ち上げ、着席が常識だったライブにオールスタンディングを導入し、数多のバンドが集うロック・フェスを開催。いまや当たり前となったカルチャーの原点を築いたのは、カリスマでもスターでもない—ただ、自らの表現を信じて突き進んだ、若者たちだった。
そして彼らが残した火種は消えることなく、日本の音楽シーンに計り知れない影響を与えていく—。
偶然ラジオから流れたセックス・ピストルズに衝き動かされたカメラマンのユーイチは、ロックミニコミ雑誌「ロッキンドール」に出会い、とあるライブハウスへと足を運ぶ。そこで出会ったボーカルのモモ率いるバンド「TOKAGE」のライブに衝撃を受け、無我夢中でシャッターを押した。そこは音楽もバンドも観客たちも何にも縛られない生のエネルギーに溢れた異空間だった。カメラマンとしてライブの撮影を依頼されたユーイチはモモたちと交流を重ねる。やがて彼らの音楽は瞬く間に若者たちを熱狂させ、日本のロック史を塗り替えていくのだが−。





東京ロッカーズとは、1978年に捲き起こった日本で初めてのパンク・ロック・ムーブメントの総称。特定のバンド名ではなく、当時の日本の音楽シーンに対する反発と新しい表現への渇望から生まれた時代の潮流だった。それは本当にストリートから生まれたロッカー達の活気に溢れた世界だった。
彼らの最大の功績は、それまでの日本のロックを変えたこと。大手レコード会社に頼らず、ライブハウスを拠点に、自分たちの力で音楽を作り、発信した。これは、後の日本のインディーズ(自主制作)文化が生まれるきっかけとなった。彼らの実験的で妥協のない姿勢とサウンドは、後ののオルタナティブ・ロックなど、1980年代以降の多くのバンドに計り知れない影響を与えている。


新宿ロフト
1971年に開店したジャズ喫茶「烏山ロフト」を出発点に、西荻窪、荻窪、下北沢と次々と出店し、76年に西新宿に「新宿ロフト」がオープン。当時としては最大のスピーカーを設置。300人収容できる広さを持ち、本格的なロック系ライヴハウスとして注目を集めた。開店当初は、ムーンライダーズ、シーナ&ザ・ロケッツ。PANTA&HAL、南佳孝、大貫妙子などメジャーで活動するロック/ニュー・ミュージック系のアーティストが多く、ピーター・ゴールウェイ、ジェフ・マルダーなど海外のアーティストもステージに立った。78年に『東京ROCKERS』のライヴ・レコーディングが行われたことをきっかけに、パンク/ニュー・ウェイヴ系の若手バンドが次々と出演。新宿ロフトはインディー・バンドの登竜門となった。硬派なロック・バンドも人気で、81年にBOØWYがデビュー・ライヴを行い、アナーキー、ルースターズ、ARBが動員記録を競った。現在は歌舞伎町に移転したが、トークライヴやイベントなど様々な試みを通じて、サブカルチャーの発信地として若者たちから支持されている。
屋根裏
1975年に開店した屋根裏は、渋谷でもっとも古いライヴハウス。75年12月31日に頭脳警察が解散コンサートを行ったり、80年にRCサクセションが4日連続コンサートをして動員記録を作ったりになったりと出演アーティストはロック色が強かった。インディー・バンドが演奏できる数少ない場所のひとつでもあり、78年にフリクション、80年にはザ・スターリンがデビュー・ライヴを行う。80年代後半にインディーズ・ブームが巻き起こるなか、有頂天やばちかぶりなど当時人気があったナゴム・レーベルのバンドや、THE BLUE HEARTS、KENZI&THE TRIPS、レピッシュなど、パンク・バンドが数多く出演。渋谷が若者文化の発信地になる下地を作った、86年に下北沢に移転。X JAPAN、スピッツ、thee michelle gun elephant、ゆらゆら帝国など、90年代のロック・シーンで活躍するバンドがステージに立つ。97年には渋谷屋根裏がオープンするが2013年に閉店、2015年には下北沢屋根裏も惜しまれながら閉店した。
S-KENスタジオ
元レコード会社のプロデューサー、山浦正彦と田中唯士によって78年に六本木に作られた。地下1階が事務所。地下2階がライヴもできる貸しスタジオで、オープニング・イベントとして「パンク仕掛け99%」と題したライヴを開催。その様子が劇中で描かれている。ライヴに参加したのは、紅蜥蜴(後のLIZARD)、S-KEN、フリクション、ミラーズ、ミスター.カイト、スピードで、後に東京ロッカーズと呼ばれることになる面々が顔を揃えた(スピードは東京ロッカーズと袂を分かつことになる)。その後、「BLAST OFF TOKYO ROCKERS!!」と題したライヴが定期的に開催されて、東京ロッカーズの面々以外にも、SEX、突然ダンボール、ボルシーなど様々なバンドが出演。収容人数50人という小さなスタジオではあったが、無名なバンドがライヴをやれる場所が少なかった時代に、東京のインディー・シーンを生み出す重要な拠点となった。
京大西部講堂
京都大学の構内にある京大西部講堂は、1937年に建築された歴史的な建造物。通常のコンサート会場とは異なり、大学の自治会が自主運営するため、独自の価値観でライヴやイベントを開催してきた。日本のロック・シーンと関わるきっかけになったのが、70年12月31日に行われたロック・イベント、「FUCK ’70」。また、アメリカのニューポート・フォーク・フェスティバルに触発された「Mojo West」を定期的に開催し、村八分、モップス、カルメン・マキ、頭脳警察、キャロルなど、70年代のロック・シーンを代表するバンドが出演。海外から、フランク・ザッパ、ストラングラーズ、トーキング・ヘッズなど様々なアーティストを招聘した。80年代に入るとインディーズ・バンドの出演が増え、フリクション、リザード、ゼルダ、ザ・スターリン、ローザ・ルクセンブルグなどがステージに立った。プロモーターを介さず、自分たちでライヴを取り仕切る姿勢は現在も貫かれていて、一般的なライヴハウスとは一線を画する特別な場所であり続けている。