この作品はどのように制作を開始したのですか?
― 最初に思いついたイメージはふたつあって、ひとつは”シーラ ・ナ・ギグ(女性の外陰部を大袈裟に表現した裸体の彫刻)”で、もうひとつは”グリーンマン(中世ヨーロッパ美術に現れる葉で覆われた人頭像)”だ。ずっと昔に作られた教会で何度も見てきた。それは図像学的(イコノグラフィー)にパワフルで、とても興味深いと思っていた。でも、それらが一体、何なのかに関する情報はほとんどないんだ。学者であれ、ウィキペディアであれ、それについての解説をしていたりするけど、明確にはそれが何なのかよく分からない。文字で記録される以前から存在していたからだと思う。
それでこの15年間、イコノグラフィーを使った脚本を書いてきたんだけど、ずっと失敗して、これがようやく映画にできるくらいまで書き上げられたものだった。そこからこの映画が始まったんだ。
この作品は、あなたの過去の作品に比べて、
より”本能的な”ホラー映画にした、と説明していましたね。
― 僕はこの作品で“恐怖感”を描く作品を作りたかった。つまり本作はゾッとする”感覚”について描いている。それは色々な方法で表現できるけど、この作品ではホラー映画というジャンルの中でそれを表現した。でも実際にはこの作品はホラー映画としてはまったく機能していない。僕の中ではこの作品は前作『アナイアレイションー全滅領域―』と繋がっていて、両作とも何かについてどう”感じているのか”について描いた作品なんだ。
「ホラー映画として機能しない」とはどういう意味でしょうか?
― ホラー映画というのは、すべてではないけど普通は現実世界が舞台で、超自然現象が現れて、それが本当に起きているのか?起きていないのか?ということが最初の大きな問題となる。やがてその超自然現象が実際に起きていると分かると、それがどんどんエスカレートしていき、危険に繋がる。通常は人をひとりずつ殺していくことで危険が表現されていたりする。7人いた人達が最後には2人になってしまう、とかね。悪役は映画の最後の最後まで最大限の力を発揮し、ヒーローは最も力を失い、最も危険な状態となった時にそれを克服して悪役を倒す。それがホラー映画の大まかな定型だと思う。
でも、この映画ではそれを少し覆しているんだ。だから映画の終わりではモンスターは完璧に哀れな存在になっているし、ホラー映画において恐怖感というのは最後に一番高まるべきだけど、ここではそれが逆になっていて、恐怖感が徐々に減っていっている。そうやってホラー映画の文法を使いつつ、少し変えているんだ。
だから、この映画はホラー映画とも言えるけど、実際はホラー的な要素を少し使いながらも、その文法を変えることで奇妙な疑問が沸き上がり、パズルのようになる。それこそがこの映画がやろうとしたことだと思う。
ジェシー・バックリーをキャスティングした理由は?
― 良い映画が作られると監督が褒められることが多いけど、実は監督には優れた力なんてなくて、優れた俳優のおかげなんだ。そこで「では、誰が優れた俳優なの?」という話をすると、大抵の人は同意してくれる。
例えば、僕がすぐ思いつくのは、フィリップ・シーモア・ホフマンで、彼は亡くなってしまったけど、彼を悪い俳優だと言っている人を聞いたことがない。それはジェシー・バックリーも同様だ。すべての人が彼女を最高の女優だと言う。つまり、監督に優れた力があるわけじゃなくて、彼女がこの映画に出てくれてラッキーだった、ということになるね。彼女がよく見えない作品なんて相当腕の悪い監督じゃないと作れないよ。
ロリー・キニアがすべての男性を演じることにした理由は?
― それは観客に疑問を持ってもらうためなんだ。例えば、右翼と左翼の人達が論争を開始すると、ほとんどの場合は、どちらが少し話しただけで、そこから会話がどこに向かうのかが分かり、会話が結論に達する前に、お互いに心の中でその結論に反発していると思う。だからふたりが会話して考えを変えるということはほぼない。でも、この映画はいかにしてそれぞれの既成概念を覆し、話し合いをできるような場所に持っていくのかに挑戦しているんだ。それはどうやってできるのか?その時にはどんな感じがするのか?
だからこの映画ではひとりの俳優がすべての男性を演じているけど、映画の中ではあえてそれに触れられていないし、主人公のハーパーが『なぜすべての男は同じ顔なのか?』と疑問を持つ瞬間がまったくない。そこで観客は理由を考えると思う。偶然に同じ俳優が演じているわけはないから、そこには何らかの意図があるはずだ、とね。例えば、ハーパーが“男というものはすべて同じだ”と気付いてないからだと言えるかもしれない。あるいは、“男はすべて違うのだけれど、彼女には同じに見えているんだ”と解釈するかもしれない。
僕は明確な答えがないことで観客の頭に疑問が残り、自分で何かしらの答えを探してもらえたらいいなと思っているんだ。
(同じ顔の男たちを演じた)ロリー・キニアが、
自分がキャストされた後に彼のエンディングのシーンが書き換えられたと言っていましたが。
― そうなんだ(笑)。クリスマスに娘とアニメ『進撃の巨人』を観たからね。僕も脚本を書いた段階では人体に関する描写をある程度はしていたけど、『進撃の巨人』の人体描写があまりにも素晴らしくて、自分は怠けすぎていると思ったんだ。もっと頑張らなくてはいけない、と。『進撃の巨人』に直接影響を受けたというよりは、『進撃の巨人』に刺激されたんだよ。それが結果的には、みんなが観るあのシーンに繋がったということなんだ。
2週間のリハーサルがあって、そこで男性として女性としての体験の違いを話し合い、
それが映画に活かされたというのは本当ですか?
― 僕は映画作りを常にコラボレーションだと思っていて、とりわけリハーサルが重要な部分を担っている。リハーサルでやることの大半は話し合いだ。それによって映画が変わる。例えばこの映画の中で詩を読むシーンがあるけど、あれはジェシーの提案によるものだったし、ジェシーがピアノを弾くシーンは彼女が撮影の合間にピアノを弾いているのを聴いて入れることにしたんだ。映画の中では『ピアノを弾くの?』と聴かれて、『ノー』と答えるのに、ピアノを美しく弾くというシーンになった。そういうことは自然に起きることなんだ。
もちろんリハーサルだけでなく、撮影している瞬間に起こることを捉えることも大事になる。例えば、ジェシーと(夫を演じた)パーパ・エッシードゥが論争するシーンがあるけど、通常とは違い、2台のカメラで同時にそれぞれの俳優を撮影して、スタッフは可能な限り俳優から離れた場所にいるようにした。そうすることで彼らはカメラに向かって演技したり、スタッフに邪魔されることなく、お互いに相手を見て演技をすることができる。だから非常に生々しくて緊張感のある演技が写っているんだ。
あなたが監督した3作は、
ジェンダーに基づく暴力、ホラー的要素、歴史やSFの要素、ジャンル映画的である、など
いくつかの共通点があります。
― 僕は基本的にジャンル映画が好きだからね。ジャンル映画にすると使える道具がたくさんあるし、それをいかに覆すのかが面白い部分でもある。いま挙げられたテーマに関する部分については、確かに僕の頭の中に長い間あるものだけど、それを口にしてしまうと邪魔になることもあると思う。とりわけこの映画については『何についての映画だ』と言いたくないんだ。観客がそれぞれの体験をこの映画に投影して、それぞれに解釈してもらいと思っているし、その空間を作った作品だと思っている。この映画は観た人によって違う解釈ができるように意図されていて、それこそが『MEN』が何についての映画なのかを語っている。だからここで映画のテーマなどについて詳しく語って、観た人達の解釈の邪魔をしたくないんだよ。
撮影場所について教えてください。
本作の舞台となるのは“郊外の屋敷”という非常に閉ざされた空間です。
― あの場所は、ハーパーが自分の気持ちの整理をする時にどんな場所に行きたいか?を考えて選んだものだった。でも、あの場所で起きることは非常に複雑なものだ。そこで僕の頭に浮かんだのはリチャード・カーティスのことだ。彼は『ノッティングの恋人』とか『フォー・ウェディング』の脚本を書いたりした人だけど、ブルジョワで特権階級の人たちの生活について描いてきた。僕は郊外の家を選ぶ時にリチャード・カーティス的な感じの家にしたかったんだ。すごく華やかで、あまり現実的ではない場所にね。そこから曲げていこうとした。つまり、誤解を招くようなことをあえて利用したんだよ。
エンディングについて。
― 最初、エンディングでは、ふたりがただ笑顔で見つめ合うのが美しいと思っていた。その方がよりシンプルでより強い、とね。でも、あのシーンでジェシーがやったことは非常に複雑だし、彼女の反応も描かなければならないわけだから、最終的なアイデアにたどり着くまでに時間がかかったよ。ホラー映画の定型に従うなら彼女は叫ぶのだろうけど、ジェシーの反応の中には幾重もの層があって、一見してすべてが見通せるようなものではないからね。
一般的に映画というのは、子守唄のように何度も何度も同じ物語を語ってきた。基本的にはほとんど変わらない。でも、この映画のエンディングでジェシーはその常識を覆すようなことを、非常に静かで洗練された中で表現している。あのシーンに到達するまでにはたくさんの会話とジェシーなりの考えがあったと思う。僕にとってはそれこそが最も大事なことだった。