INTRODUCTION
あの日、未曾有の災害に直面しながらも
困難な状況や悲しみに向き合った人々がそこにいた

舞台となるのは岩手県・釜石市にある廃校となった中学校の体育館。釜石の地形は壊滅的な被害にあった地域と難を逃れた地域が、1本の川を挟んで2つに分かれています。災害が起きた当初、残された市民たちは津波の状況を把握出来ていない中で、同じ町に住んでいた人々の遺体を搬送し、検死、DNA採取、身元確認を行わなくてはならない状況となりました。犠牲になった人たちの尊厳を守りながら一刻も早く家族と再会させるため、懸命に尽くしました。同じ被災者でありながら、つらい役割、現実を担わざるを得なかったのです。

一人のジャーナリストが実際に目撃し、取材した事実を基に描く
報道が伝えきれなかった真実

原作はジャーナリスト・石井光太氏の著作『遺体 震災、津波の果てに」(新潮社刊)。当時の報道では伝えきれなかった東日本大震災の知られざる事実を描いたこの壮絶なルポルタージュ本を読み、映画化に向け突き動かされたのは、「誰も守ってくれない」(08)で、モントリオール世界映画祭最優秀脚本賞を受賞した君塚良一監督。原作を読んだ監督はこの事実の中にある”真実”を映像を通して伝えるべきだと確信、製作にあたっては何度も現地を訪ね、実在のモデルとなった方々のもとへ足を運び新たに取材
を行いました。「未曾有の災害に直面し、立ち向かった人たちの姿を多くの人に伝えたい。災害や被災地への関心を薄れさせてはいけない。その想いを胸に作りました」と語りました。

「風化させたくない」
その想いで日本を代表する俳優陣が集結

出演者もそんな君塚監督の想いに共鳴し集結しました。遺体安置所でボランティアとして働き、安置所で働く人たちに遺体に対する
尊厳を伝えていく相葉常夫に西田敏行。「ご遺族の方々の心境を考えると、劇化するのが正しいかどうか判断には非常に迷いました。しかし劇化することによって”事実”とは違う”真実”が引きだせるのではないかと思い、出演を決意しました」と胸の内を語り、
その他、緒形直人、勝地涼、國村隼、酒井若菜、佐藤浩市、佐野史郎、沢村一樹、志田未来、筒井道隆、柳業敏郎(50音順)などの俳優陣も本作に賛同し、後世に遺すべき作品を作り上げました。

STORY
2011年3月11日、日本の観測史上最大の地震により発生した津波が岩手県釜石市を襲いました。
一夜明けても混乱状態が続く中、市では廃校となった旧釜石第二中学校の体育館が遺体安置所として使われることになりました。次から次へと運ばれてくる遺体に、警察関係者や市の職員も戸惑いを隠せま
せん。
釜石市職員の松田信次(45)(沢村一樹)は、遺体の運搬作業に就くが次第に言葉を失っていきます。急ぎ駆けつけた釜石市の葬儀社に勤める土門健一(39)(緒形直人)も経験したことがない犠牲者の数
を聞き、ただ立ち尽くすしかありませんでした。
医師や歯科医師たちは遺体の検死作業にあたることになりました。暖房もなく冷えきった体育館の中で、医師の下泉道夫(53)(佐藤浩市)や歯科医師の正木明(51)(柳葉敏郎)、歯科助手の大下孝江(36)(酒井若菜)らは、いつ終わるのかもわからない検死作業に取り組んでいきます。時には顔見知りの市民が遺体となって搬送されてくることもありました。
そんな遺体安置所を訪れたひとりの男・相葉常夫(66)(西田敏行)は、定年後、地区の民生委員として働いていました。定年前は葬祭関連の仕事に祝いていた相葉は、遺体の扱いにも慣れ、遺族の気持ちや接し方も理解していました。混乱した安置所の様子に驚がくした相葉は安置所の世話役として働かせてもらえるよう、旧知だった市長の山口武司(58)(佐野史郎)に嘆願し、ボランティアとして働くことになりました。

運び込まれてくる遺体ひとりひとりに生前と変わらぬような口調で優しく語りかけていく相葉。「遺体には生きている人と同じように接しなさい」と語る彼のその言動に、それまでは遺体を”死体”としか見られず、た
だ遺体を眺めることしかできなかった釜石市職員たちも率先して動くようになっていきました。平賀大輔(36)(筒井道隆)は最初は戸惑いながらも少しずつ遺体に話しかけるように。自分のアパートが流された上に親友が行方不明になってしまった悲しみから遺体安置所の中に入ることすらできなくなっていた及川裕太(25)(勝地涼)も、いつしか遺族の拠り所になっていきました。照井優子(19)(志田未来)も複雑な気持ちを乗り越え、安置所に祭壇をつくろうと提案。地元の住職・芝田慈人(国村隼)も駆けつけ供養をすることに。安置所に響き渡る御経に、終わりの見えない作業に向き合っていた相葉たち、そして遺族も自然と手を合わせていました。

震災から10 日目。目の前にある現実を直視しながらもそこから逃げない。残された人々は、今自分が出来ることをやり遂げ一人でも多くの遺体を家族の元に帰すことだけを考えていました。

そして、震災から2ヶ月後の5月18日。遺体安置所はその役目を終え、閉鎖されました。
しかし、その後も犠牲者の遺体は見つかっています。