
1945年沖縄県伊江島。激しい攻防戦が展開される中、2人の日本兵が命からがら木の上に身を潜め、日本の敗戦を知らぬまま2年もの間生き延びた――そんな衝撃の実話から着想を得た作家・井上ひさしが原案を遺し、こまつ座にて上演された舞台「木の上の軍隊」が映画化。本土から派兵された厳格な日本兵を演じるのは確かな演技力で日本の映画界を牽引してきた名優・堤 真一。沖縄出身の新兵に抜擢されたのは、数々の話題作で存在感を示す山田裕貴。ダブル主演を務める堤と山田は初の共演ながら、阿吽の呼吸で極限状態の兵士たちを、繊細かつ力強く、人間らしい可笑しみをもって表現する。監督と脚本を手掛けるのは、『ミラクルシティコザ』のスマッシュヒットが記憶に新しい沖縄出身の新進気鋭・平 一紘。全編沖縄ロケ、伊江島で実際に生い茂るガジュマルの樹上で撮影を敢行。本作を象徴する主題歌「ニヌファブシ」を手掛けるのは伊江島出身のシンガーソングライター、Anly。終戦から80年、熾烈な地上戦が繰り広げられた沖縄戦を必死で生き抜いた日本兵の実話に基づく物語は、観る者すべての心に深く刻まれる。
太平洋戦争末期、戦況が悪化の一途を辿る1945年。飛行場の占領を狙い、沖縄県伊江島に米軍が侵攻。激しい攻防戦の末に、島は壊滅的な状況に陥っていた。宮崎から派兵された少尉・山下一雄(堤 真一)と沖縄出身の新兵・安慶名セイジュン(山田裕貴)は、敵の銃撃に追い詰められ、大きなガジュマルの木の上に身を潜める。仲間の死体は増え続け、圧倒的な戦力の差を目の当たりにした山下は、援軍が来るまでその場で待機することを決断する。戦闘経験が豊富で国家を背負う厳格な上官・山下と、島から出たことがなくどこか呑気な新兵・安慶名は、話が嚙み合わないながらも、二人きりでじっと恐怖と飢えに耐え忍んでいた。やがて戦争は日本の敗戦をもって終結するが、そのことを知る術もない二人の“孤独な戦争”は続いていく。極限の樹上生活の中で、彼らが必死に戦い続けたものとは――。
Kazuhiro Taira
2013年4月5日に東京・Bunkamuraシアターコクーンにて初演された「木の上の軍隊」は、「父と暮せば」「母と暮せば」と並ぶこまつ座「戦後“命”の三部作」の第二作に位置付けられる舞台である。沖縄戦というあまりに悲惨な歴史において「ガジュマルの樹上で2人の日本兵が生き延びた」という数少ない“希望の話”を知った井上ひさしが、原案となる2行のメモを書き残したのは晩年のこと。それを基に井上の娘であるこまつ座社長の井上麻矢が、その遺志を劇作家の蓬莱竜太氏と演出家の栗山民也氏に託してつくられたのが「木の上の軍隊」だ。
樹上の目線から相互理解の難しさを見つめるこの舞台は、同時に“生命力の象徴”であるガジュマルの木を通して力強く「生きる」というテーマを標榜する。戦争をユーモアとともに描いているという点で「木の上の軍隊」は稀有な作品と言えよう。井上麻矢は「笑いはもっとも人間らしいコミュニケーションだと思う。笑いは生きるうえでの栄養になるからこそ、樹上で生き抜いた彼らの間にも笑いを入れたかった」と語る。また本舞台での笑いは、主人公2人の距離感を示す機能も果たしている。
沖縄の人間ではない制作陣は“沖縄の人々の喜びや苦しみは本当の意味で理解することはできない”ということと常に向き合ってこの舞台を作り上げたが、ブラッシュアップされた末に「木の上の軍隊」が沖縄で上演された際には「よくここまで寄り添ってくれました」と観客が喜んでくれたという。
「この舞台をつくるうえで何より大切にしたのは、ガジュマルの木の上からの目線でした。木の上から眺める変わりゆく景色の中で、理解し合うことの難しさや、別の世界で生きてきた2人の想像する過去や未来が鮮明に浮かび上がります。その視点をどう表現するかにはかなりこだわりました。それは映画も同じだと思います。沖縄出身のチームにより、沖縄でつくられた「沖縄映画」である本作は多くの人の心を動かすのではないでしょうか」と井上は語り、期待を寄せる。
1934年11月16日生まれ、山形県出身。
69年「日本人のへそ」で演劇界へ本格的にデビュー。72年「道元の冒険」で岸田國士戯曲賞受賞。以降、戯曲、小説など幅広く活躍する。81年、「吉里吉里人」で日本SF大賞受賞。84年には「頭痛肩こり樋口一葉」で自作のみを上演する「こまつ座」を旗揚げ。そのほか、「化粧」「父と暮せば」「ムサシ」などは海外で上演され高い評価を獲得し、最後の作品「組曲虐殺」まで七十近い戯曲を書き下ろした。直木賞、紀伊國屋演劇賞、読売文学賞(戯曲部門・小説部門)、吉川英治文学賞、菊池寛賞、朝日賞など受賞歴も数多い。04年には文化功労者に選ばれ、09年には、小説・戯曲を中心とする広い領域における長年の業績で恩賜賞日本藝術院賞を受賞した。2010年4月9日、75歳で逝去。
私の今までのキャリアは、"『木の上の軍隊』の主題歌を書く"という使命に繋がっていたのだと思います。
私は伊江島に生まれ育ちました。穏やかな島の風景の端々に影を感じるときがあります。戦争の傷跡は人の心、自然、建造物、あらゆる所に80年経った今も残っています。それらは命が繋がれた奇跡と家族への感謝も思い出させます。
今回の楽曲制作では相手を理解しようとする姿勢や、共に考える仲間がいるから様々な視点で物事を捉えることができることを学びました。それは平和への一歩だと思いました。
ニーバンガジュマルは、映画を通して多くの人の心の中で枯れることなく想いを守り続けていくでしょう。いつも同じ場所にある北極星のように、平和への想いを胸に灯し、私は歌い続けます。
1997年生まれ、沖縄県・伊江島出身のシンガーソングライター。今年2025年でデビュー10周年。
英語詞、日本語詞、様々なジャンルの音を楽曲の随所に感じさせる。イベントや会場にあわせパフォーマンス・スタイルを変え、日本国内に留まらず、香港、台湾、イギリス、ドイツ、アメリカ、カナダ、スペインなど海外でのライブも行う。ドラマ主題歌・人気アニメOP/ED曲・映画音楽・CM曲など数多くの楽曲を手掛け、現在は東京から地元沖縄に拠点を移し活動中。
1917(大正6)年7月28日生まれ、沖縄県うるま市出身。
職業は、酪農、農業。
1939(昭和14)年に結婚、40年に長男、42年に長女をもうけ、44年4月に召集され出兵。44年11月に伊江島に派遣された。1947(昭和22)年5月に帰郷し、牛を飼い、サトウキビを植える仕事に戻る。
1948(昭和23)年に次男、50年に三男、52年に次女が生まれる。
2009(平成21)年6月11日没、享年91歳。
1909(明治42)年11月15日生まれ、宮崎県小林市細野出身。
職業は、農業、軍用馬の育成(出兵前まで)。
1944(昭和19)年に臨時招集令状を受ける。当時、妻と34年生まれの長男、37年生まれの次男、41年生まれの長女、43年生まれの次女を残し、沖縄に出兵。1948(昭和22)年にようやく帰郷し、農業の職に戻る。52年三女が生まれる。
1988(昭和63)年6月8日没、享年78歳。
映画『木の上の軍隊』のエピソードの大部分は、実話を基に描かれている。
本作のモデルとなった兵士、宮崎県小林市出身の山口静雄さん、沖縄県うるま市出身の佐次田秀順さん。2人は、1945年4月16日~21日までの6日間、沖縄県伊江島に上陸した米軍による激しい攻撃を受け、壕を転々と逃げ続けた後、葉が生い茂るガジュマルの木の上に身を潜めた。
樹上に他のガジュマルの枝を集め巣のようなものをつくり、アメリカ兵が寝静まった夜中に地上に降りて食料を探したという。最初は畑の焼け残ったキャベツなどを食べて空腹を凌いでいたが、あるとき彼らはアメリカ兵が捨てた残飯を発見し、そこから彼らの食生活は一変。後にゴミ捨て場も見つけ、剃刀と鏡で髭を剃り、捨てられた軍服も着るようになる。
だが、ある日、隠れていた樹上から島民たちを見かけるようになった2人は、自分たちが隠した食料を島民に盗られたことに気付き、亡くなった戦友の名で手紙を書く。そして島民からの返事で戦争が終わったことを知った、という劇中の展開は事実である。
山口さん、佐次田さんが実際に登ったガジュマルの木は【ニーバンガジィマール】(ニーバンはガジュマルの木がある宮城家の屋号)と呼ばれ、命を救った神木として今も伊江島に残っている。2023年の台風6号で1度倒木したが、土を入れ替え植え直し支柱を強化して再建、木は今も沖縄県伊江島で平和の象徴として語り継がれている。
伊江島は沖縄本島北部から北西9キロの海上に浮かぶ一島一村(伊江村)の離島。
面積23平方キロ、東西8.4キロ、南北3キロの楕円形で、島の東部には海抜172mの岩山(タッチュー・城山)がある。一面にひらける平坦な土地は、「日本軍でも米軍でも飛行場を作りたい欲望に駆られるような地形」(米海兵隊戦史)といわれたように、この美しい地形が太平洋戦争末期には「不沈空母」の役割を担わされ、史上まれな地獄の戦場へと変貌していくこととなった。
島の北西部には在日米軍の伊江島補助飛行場があり、現在も島の面積の35%は米軍基地となっている。
「伊江島戦」年表 | |
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1943年 8月 |
陸軍航空本部の少佐ほか数人の将校が伊江村役場を訪れ、村及び村民へ飛行場建設のための協力を要請。 |
1944年 7月 |
飛行場を急速に完成すべく増援。4500名の軍が駐屯し、伊江島は兵隊町と化する。 |
1944年 10月 |
沖縄本島及び周辺離島で空襲があり、その一隊が伊江島を狙い、飛行場を爆撃した。本島との連絡船が銃撃を受けて航行不能となる。破壊された飛行場の修復及び陣地の構築を急ぐ。 |
1945年 1月22日 |
敵機の大編隊が襲来、全島に猛烈な空爆を開始。2回目の空襲を受ける。焼夷弾の雨となり各所火災焔々猛威をふるい、飛行場はじめ村内の重要建物は殆ど破壊され、人畜被害は甚大なものとなる。同様の空襲は3月1日にも繰り返された。 |
1945年 3月上旬 |
飛行場が米軍に利用されることを恐れ、牛島軍司司令官は伊江島飛行場の破壊を命令。 |
1945年 3月23日以降 |
空と海からの爆撃が島全域を襲う。 |
1945年 4月16日 |
島の南側から敵軍上陸。少年義勇隊、救護班、炊事班の婦女子、避難中の住民が駆り出される。急造爆雷、手榴弾、小銃、竹槍等をもって戦闘。同21日まで6日間の激しい攻防戦が続き、4月21日 日本軍の組織的抵抗が終わる。 |
1945年 4月下旬 |
米軍は敗残兵の掃討を徹底的に行った。収容された住民は約2100名に達し、慶良間列島へ移送された。軍民の戦没者数は3500名(軍2000名、民1500名)とされている。 |
1946年 4月~7月中旬 |
沖縄本島(本部町、今帰仁村)への移動命令がくだる。 同年8月以降、外地及び他府県より村出身者が引き揚げ(現在の名護市久志へ移動)。 |
1947年 3月以降 |
村民が伊江島に帰還。 |